(以下引用) 言葉のキャッチボールは、相手を否定することではないよ。やり取りの中で、問題点を絞り込む。新しい疑問が生まれ、その答えを探す。その繰り返しだ。疑問を持つことは大事だよ。相手の言うことに対して、「それはどういうこと? よく分からないからもう一度説明して」と。「なぜ」「どうして」と100回繰り返せばいい。1、2回で、自己主張を始めてはだめなんだ。(引用終了)
この部分についてはおおむね同意できる。自己主張だけでは議論は展開されない。お互いに論点をまず確認し適切に理解されていなければ、そもそも議論が始まらない。
(以下引用) ヨーロッパでは、伝統的に弁証法などを学ぶので、言葉を扱うのも技術だということがわかっている。日本にも実は、俳句とか短歌という「型」があります。今は少ないでしょうけど、僕は子供の時、正月に家で百人一首をやりました。俳句とか短歌は、五七五、五七五七七の中に言葉をはめ込むでしょう。何か光る言葉を探してこないといけない。季語もいります。そういう言葉は辞書を引いたり、本を読まないと出てこないですよ。良い意味の言葉のゲームで、これは「技術」です。「技」と言ってもいい。(引用終了)
論理的な主張や議論の話でしたよね?なぜ、それが俳句とか短歌になるのでしょうか。論理的な主張のための型をここで主張されるのならば理解できるが、それが詩歌の形式と混同するというのは論理的に破綻しているのではないだろうか。
猪瀬氏が言う労働力の流動化によって、使用される言語にかかわらず(つまり、日本語であろうと英語であろうと、そのほかの言語であろうとも)状況によっては相手に誤解のないようにシンプルかつ性格に自分の考えを表現する努力が必要である。それと同時にその努力を果たした相手の考えも正確に理解しようと努めなければならない。その状況下において、論点を明確にして相手の考えに賛同できれば良いし、そうでなければそうではない旨を表現し、その理由も付け加える。それによって相手も自分の考えを見直すことができる。そういうプロセスを教育現場でより丁寧に指導していく必要があると考える。詩歌の形式に習熟することも日本の文化を理解する上で必要であるし、使いこなせればよりよいことに思えるが英語教員としては上記のようにまずは「シンプルに」表現できるベースを身につけさせることが最優先ではないかと考える。
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