2014年11月16日日曜日

英検セミナーに参加して(主にCan-doについてまとめます。)

2014年11月15日
英検協会のセミナーに出席。
制作部アドバイザー 
柳瀬和明先生のお話を聞きました。
正直、聞き始めるまでは

「全く興味が持てない」Can-do
の話ですし、
「まぁ、英検協会のCMも兼ねてる
 からしょうがないよねー」ぐらいの
つもりで聞き始めました。

うちの学校ではCan-doは作成こそすれ、
「はっきりいってどこかのコピペ」
「右から左への仕事」感があります。
一応まじめに勉強したことはあります。
県のセミナーにも行きました。

けど「結局何をどう作って、
それは何に使うのかがわからない、
だから、勤労意欲わかないし、

「仕事の優先順位が低い仕事に」

に位置づけ、とりあえず頑張って
作って提出したけど、

「教員も、管理職も、生徒も」
見向きもしない産物


となっていました。

今回はその考えの【転換点】
になったこと、そして日本に
おける語学学習の【壁】について
非常に示唆深い話を聞く事が出来ましたので
自分の中でまとめるつもりで記録しておきます。

①日本の隠れたCan-do・・・大学入試の結果

(渡部雑感)
確かに進学校といわれる学校では

「国立何人」

が一つの尺度として使われてますし、

「模試の偏差値〜、平均点〜」

という中間発表に四苦八苦
されてる話をよく耳にします。

表のcan-doと裏のcan-do

をどう両立していくかは現実問題と
して重要なファクターでしょう。


(講演)
現実的にそういう要望にコミット
する事も重要。今日は現実的な
裏のcan-doはおいておいて、具体的な
指導の過程でどう活用するか、
「GPS機能」と「カーナビ機能」
になぞらえて示していきたい。

can-doは「具体的に何が出来るか」
という行動で表現する。

反面、英語教師はともすると

「be going toは未来を表す時に使う表現」
ということが「分かっているかどうか」

に注目し、それを確認するペーパーテストを
作る傾向がある。

学習の結果として

「具体的に何が出来るようになるか」
「何が出来るようになったか」

に焦点をあてる事で

「学習者の学習に対する効力感」

を高めるのがcan-doの目的である。


 ともすると今までの日本の学習は

『師匠が弟子に

「あれできてない」

「これできてない」

という叱責をすることが

教える事である。

(足りない事を知る、ですな。)

そういう学習文化』に根付いていた。


しかし、このようなスタイルが
果たして

「今の学生にマッチするのか」

「この時代に合致してるか」

検討するひつようがあるのではないか。
やはり「これをかえる必要がある」と思う。

つまり今までの日本人のメンタリティと
can-doやこれからの英語学習は
そう反する部分があり、

「今までの学習にかけている部分を補完」

する意味合いがcan-doにはある。

(ここまで書くと、

「そういう物が今までまったくなかったわけじゃ
ないだろう?」とEvil's wispergがささやくわけ
だけども、


渡部が思うに、

「無いわけじゃなく、教員の善意に支えられていた」

というか、

「教員の個人の資質に影響されていたんじゃ無いか」


と思う。じゃなくて、もっと透明性の高いもの、
明文化したものにした方がいいんじゃない?

という提案は至極『妥当なもの』な気がする。
ただそれが横文字になると

非常にうさんくさいもの

に聞こえちゃうのは渡部がooooollllddddd typeee!!
だからだろうか。)


また、

can-doを指導者と学習者の両方で共有する

ことで学習者にとって


「現在地確認(=学習の達成度合い)」

と、

「次の段階の内容の確認、

さらに「次の段階に達するために必要な
学習方法を提示し、レディネスを与える」

(つまり「心の準備をしておけ」ということ?)

が要諦であろう。





外部指標の活用から見る英語学習の課題・壁
①CEFR/CEFR-J ②英検can-do、③GTEC

CEFRで見ていくと、A1~A2のレベルは

「I」とその周辺の世界

について読み書き話聞くレベルである。
英検で言うと3級の世界である。

英検2級の壁=CEFR B1〜B2の世界の壁


は何かというと、


語彙レベルや運用能力の問題というよりも

「自分中心のI(アイ、私)の世界から自己の周辺世界へ
の脱却」

という部分ではないか、という話。

これは非常に興味深い。

(、いや、個人的にはしびれた!!)


確かにCEFRの記述や英検の記述を見ていくと、
そうなっている。


つまり、
英検二次であるような問題で

People nowadays travel abroad.
Do you think more people will travel
abroad in the future?









という問いに





I think so, too
because I like to travel abroad.
Thus many people will travel abroad
in the future, too.



というreasoningがある種、


「その壁が顕在化したもの」


なんじゃないか、ということ。

(この当たりは英語ディベートでも感じる点・・)






「じゃ、どうしたらいいの?」という話。

ここで村野井2006を引用。
「英語を使えるようになりたいといいながら新聞は読まない、本も読まない、娯楽映画意外はみない、という状態では仮に英語運用能力がついたとしても中身の無いコミュニケーションしか出来ない人間になってしまうだろう。」


つまり
英語だろうが日本語だろうが、
そういう話題について


「広がり」と「深み」

をもたせる教育を


「英語科だけじゃなく、
 複数の教科でまたがって、
 輻輳的に
 行う必要があるのではないか」

という提案に思わず「うーむ」
とうなってしまった。

(意外とここまで踏み込む発言を
 英検関係者が言うのは珍しい、
 違和感があってipadで見てみたら
 この方、元都立教員とか。
 なるほど、現場をふまえておられる
 気がしたのはそういう事ね。)


(以下渡部雑感)
「英語科教員だけが背負い込む必要は無い」

は至言。


じゃ、どうするかまでは
具体的に言及されませんでしたが、


話を聞いてると、
全て教員が抱え込む必要性は無く、
ただ、


教員側として、
「全ての科目でより認知的負担が
高い方向へチャレンジさせる、
励ます、活動させる」

ことと、

学習者に

「現在地をフィードバックしながら、
次の到達点の明示、そこまでの方略の明示」
をする事で学習者の自律的な学習意欲を
引き出す、


という考え方にたどり着きそうな気がする。

「自分中心・具体的事物中心」の思考から
より認知的負担が大きくなる

「多者間・社会的な話題、抽象的な話題」

に慣れ親しむ学習活動を
「意識的に組み込む必要性」
がある。そのことは実は
学習指導要領にも組み込まれている。
(資料参照)

「英語科だけで抱え込む必要は無い」
ではどうするか?

を考える過程で


「実際のところ、学習者の母語の
生活実態はどうなってるのか?」

を調べたデータが非常に興味深い。


つまり英語can-doで記述されてるような
ことを生活言語である
「日本語でやってるのか?」


ということを調べたところ、やはり、

日本語での生活実態と英語での活用状況は
比例関係にある」ようで、

日本語でもB1−B2の世界に
至っていない生徒は英語でその世界に
到達などかなり困難を極めるというのは
自明。

だけれども、あまり押さえられてない
ところである。

そういう意味で「英語科だけで抱え込む」
のではなく例えば、
他教科との連携、
家庭学習の運用方法、
などで足りない部分の補完

ということは考えていく必要がある。

日本人の言語観で非常に
有意義な指摘があった。

Takao Suzuki 1975の引用
日本人の伝統的な伝達が、①理解よりも察知する事、説得よりも感得することに重点が置かれていたのは、結局は②同質の相手を前提とし、相手と同質になることに努め、またそれが可能であったという事実
帰着すると思われる。

つまり情報の発信者の責任よりも、
受信者の責任の方が重いということである。

(集会でつまんない話をしてても
 寝るな、携帯をかまうな、
 しゃべるな、というのは典型例?)

こんな状態では発信者の情報の内容
について精査する必要がない。

発信スキルを上げる必要性も薄い。

よって質問力や説明緑は育ちにくい。


そもそも「以心伝心同質になること」
(あたかも師匠と弟子の関係に似てる)

が目的なので

疑う事なんて以ての外、

なわけである。

現代まではそうでした。ちょっとそれが変わりつつ
ある時代の節目でしょう。

(渡部の雑感)
今自分の現場では外国人生徒が多く、
日本文化を前提とした『当たり前』
は当たり前でないし、

「なんでなん?」に逐一答えなければならない。

「教室では帽子を脱がねばならない」
これ、工場で働いてる外国人生徒に
どう説得します??

「帽子かぶってたら失礼って、
 あんた、そんなに偉いんか?
 仕事やろ、教えるの。
 仕事上の付き合いに上下つけるなや。」

 これ言われたときに、個人的には
しびれましたけどねぇ。

じゃぁ、どう返そうか?

と思って悩んでたんですけど、あっちが上手で

「まぁ、先生が言うなら脱いでやるわ。」

でそれ以上話しませんでしたけど、難しい問題です。

そんな環境にいると、この事は身にしみてよく分かる。
これを毎日繰り返してると

「前提が違う人間との接し方」

というのは非常にコミュニケーション能力を高める
んじゃないかと思う。

説明する必要性、必然性がある。

「なんとなく。」
「だよねー。」文化はやっぱり
日本文化の象徴だな、と思う訳です。

今日本が直面してるのはその「崩壊」
というか「破壊」というか。逐一でいい
から説明する『トレーニングせよ』という
ことじゃないでしょうか。

それが日本古来の「あうんの呼吸」
や「以心伝心」を破壊するのか、
どうなのかは分かりませんし、
そもそもそれが本当に良いのかも
再検討しながら先に進むしかないかも
しれません。

まとめ
今まで言われてきたけども、
「母語は外国語の基礎である」
というのは当たり前の話です。

当たり前すぎて

あまりにも検証されなさすぎた

のではないかと思う。

今回、データを重ね合わせながら
見ていくと、日本語での言語技術と
英語での言語技術との相関関係は

高そうである。であるならば、

国語科との連携、
また、B1−B2への
展開ということを視野に入れ、
(高等教育というのであれば
 視野に入れねばならないだろう。)

社会科や理科との連携、特に、
それらの科目における『言語活動』
がキーになるように思えてならない。

『その学校で、全科目で言語活動がうまくいくかは英語科のイニシアティブにかかっている』といったのは岐阜県のS指導主事だったが、その事を思い出した。

まさしく


「英語科だけで頑張っててもダメ」

なのである。

資料についてはメールかメッセージをいただければ、と思います。