2014年2月23日日曜日

小学校英語教育学会(JES)岐阜支部セミナー

N. S君も来ていた昨日のJES小学校英語教育学会。
セミナー詳細
http://bit.ly/1bxAmeO
その他岐阜大学の学生さんもたくさんいらっしゃってましたね。
渡部は瀧沢先生が岐阜にいらっしゃるというので巽先生に誘われて
行って驚きました。

小学校英語教育、批判的に見てる部分も正直ありました。
言い方が乱暴ですが自分が以前感じていた批判的な部分を
あえて書いてみると


  1. 扱う時間数が少ないから、効果がなさそう。
  2. 英語を扱う時間はどこかの教科とのトレードオフだから、どこかの教科が犠牲になる。
  3. 英語教育を専攻した、または、英語を専攻したわけではない小学校の先生達が何を教えているのか、何を目指してるのか、どう取り組んでいるか見えてない=知らないことは批判できてしまう。
こんな感じでしょうか。

 今回の学習会に参加させていただいて、「英語を教える」というteacherというよりもむしろ小学校の先生は「未知の言葉との出会いのコーディネーター」を目指してるのかな、という気がしました。 大垣市N小学校の取り組みを見ていてそれを強く感じました。

 未知の言葉は英語だけに限らず日本語にも当てはまるわけです。だけど母国語である日本語は「知ってるつもり」になってしまい、その「気付き」はよほど鋭敏な学習者でないと感じないんじゃないか(または国語好きな生徒かな?)と思いました。

 だからこそ小学校英語教育は「体験的に」学ぶ、感じることに重点を置いていることが僕も体験的に気付かせていただきました。

 前述のN小学校では「FUNTIME」という名の帯活動、しかも掃除時間後に毎日10分間行うというものでしたが、もうこれは視聴者参加型のテレビ番組なのです。ALTと先生が放送室から投げかけ、それをホームルームの先生が引き継ぎ、英語と日本語を上手に使い分けながら児童に英語を浴びせかけていました。スキットには「国際交流委員会」という学校内の委員会組織の児童が参加していました。事前指導はたっぷりされているのでしょうが、それにしてもテレビ画面を通して全校児童が見ている前でスキットをやりきるのはかなりのプレッシャーであるはず。それを乗り越えた彼ら彼女達が中学校にやってくるのだなぁと思うと、背筋が伸びる思いです。

 また本巣市の取り組みでは「文字の扱い」という小学校指導要領ではかなりセンシティブな問題に切り込んで発表されました。指導要領では「文字は学習の補助具と言う位置づけでそれ自体を指導(=評価対象)にしてはならない」ということらしく、中学校へ進学した児童が文字を書く時に消極的になっていたことに課題を感じておられたのも印象的でした。

 渡部としては「文字は音声を表現するためのもの」と位置づけています。日本語の英語教育は漢字学習に似た部分があり、漢字練習では漢字だけを何度も書かせたりします。しかし漢字もひらがなや他の漢字との組み合わせによって意味を生み出します。
 翻って英語では音声が先に存在し、それを表記したものがアルファベットであるので音声によるインプットが先立って存在し、音声とイメージのリンキングができ、その後に文字との擦り合わせ作業が必要と考えています。だとすると、文字は最終段階と考えると小学校では文字の導入・指導・評価まで踏み込むかは難しいところです。

 今回のご発表やその後の懇親会でお話を伺い、文字指導については次のことが自分の中では響きました。

  • アルファベットは既にこの日本にもあふれている。読みたい、書きたい児童の欲求はある。その興味とリンクさせた形で文字に触れることは大事。
  • 日本人にとって一番身近な言語材料は「名前」名前から派生した活動が児童生徒の関心を高めるのではないか。扱うときの慎重さも重要。
  • 「興味を持って読んだり書いたりする」事は大事。くれぐれも「苦痛や恐怖を伴って活動させない(これは自分のコメント)」
  • アルファベットの認知を高める活動(アルファベットを二つにカットしたカードのマッチング、発音をしながら。)
  • 文字を使ってビンゴ
  • 振り返りシートの活用。一回一回の活動、その感想から次の課題が見えてくる(自分にはそのマメさが…)
  • 文字を学ばないと、なぜ困るのだろうか。文字を習得すると何が良いのか。そこに本質的な「学ぶ意味」があり「効用感がある授業」というのはそこに立脚すべき。
最後の「なぜ文字を習得すると良いのか、音声情報だけじゃなぜ不便か」帰りの車で色々考えてみました。

  1. 発音は個人のバックグラウンドによって差異があるが、書いてもらえば辞書で調べられるし、知っていれば「あぁ、それね」と共通認識が得やすい。
  2. 情報の保持がより容易。音声は録音でもしない限り消える。古い文献でも残っているが口伝で伝わっているものはわずか。現代では文字に置き換わっていることが多い。また個人の解釈が入ってくる。
  3. 外部記憶としての役割。人間の脳が処理できる認知リソースは限られている。外部記憶(この場合は紙に書いた文字)に移すことによってワーキングメモリーや認知リソースがより有効に活用できる。
そんな風に考えた上で、じゃぁ、どんな活動ができるの?と考えてみたいと思った次第です。(今後の課題)


最後は瀧沢先生の講座。
  • 20をいったら負けゲーム
  • ビンゴは100までシリーズを作って見通しを持たせる。
  • できちゃった人は座ってもう一回、やり方を変えてもう一回など。fast learnerを放っておかない。
  • 3ヒントクイズ(日本語のだじゃれも参考になる!)クイズの答えになるものはできるだけ児童生徒に近いものを!
評価についての考察
小学校「〜しようとしている」
(「〜できる」が先立つとネガティブなイメージ、前向きでない生徒、謙遜感情が強い生徒などは、「できない」と自分のセルフイメージを低めてしまう可能性がある。Can-Doもその点は考慮すべき。)

中学校「〜できる」 高校「〜できる、じゃ、どの程度?」と評価のバックワードデザインが異校種間で共有迄行かなくても情報交換できていると良いんじゃないか、と思いました。また、高校での「どの程度出来ているか」を評価する前に「〜しようとしている」という心構えというか心理的な学習態度の形成はその後の学習活動の土台になっていて、その部分が書けているのであればそこまで戻って指導していいんじゃないかとおもう。しかもこの部分では形成的評価だしencouragementの意味合いがあって(剣道の9〜4級みたいに頑張ってるから授与、みたいなね。)高校のcan-doも1年生の1学期中間まで(ことによっては期末まで)そういう評価の観点を付与すべきかもしれないと思いました。

最後に。
今回参加してみて「知らないことは本当に怖い」ということを実感しました。教材に取り組む姿勢、教材準備の段階から緻密に生徒の反応を考え、よりよい授業を追求する姿勢に、日頃の自分の活動を反省するばかりです。今後中・高の教員と小学校の先生方が情報交換できる場があれば良いと思います。そういう意味で教育学部がある大学では派閥と言う意味ではなく、縦の情報交換網がで来たら良いと思いますし、その縦糸が同僚という横糸のような広がりを持って多面的に情報交換が進めば、本当の意味で英語教育が「一枚岩」になるんじゃないでしょうか。そんな可能性を感じた一日でした。感謝。